静岡新聞の記事静岡文化芸術大主催の多文化子ども教育フォーラムが4日、浜松市中区の同大で開かれ、静岡県多文化共生審議会委員で、インドネシア出身のエフィ・グスティ・ワフユニさん(39)が講演した。県内のイスラム教徒(ムスリム)への調査を基に、ムスリムの子どもたちが学校生活で給食や礼拝などに苦慮している現状を報告。「ムスリムを取り巻く問題改善のきっかけになれば」と訴えた。つまり宗教上禁止されている豚肉などが含まれた給食を何とかしてくれと。
さらにこんなことも書いてある。
学校や職場で、お祈りや断食、女性が頭にかぶる「ヒジャブ」を禁止された例や、侮蔑の言葉を投げ掛けられた体験談も示された。なるほど。
「ルールだから駄目というのではなく柔軟な対応を検討してほしい」と理解を求めた。 このように締め括られている。
ちょっとまて。
ルールだからダメと頑ななのはムスリム信者なのではないのか?
しかも給食に関してだが、ルールではなくシステムだ。
そして自らの宗教における禁忌は自らが一番理解しているわけで
入学前に相談もできるだろうし、システムを知ることもできたはず。
献立についても、日本国における習慣や経済状況に合わせて作られるのは当たり前であり
他国発祥の宗教、しかも後述するが日本の風土や食に対する取り組みとまったく違う土地の宗教が
「我々の事を理解し尊重してほしい」と言っても、言い方は悪いが上っ面だけの信仰としか思えないのだ。
さらに、イスラム圏と言われる国のいくつかは、ヒジャブを強要したりするよね?
そこに拒否権はないはず。
さらにムスリム以外の入国を基本的に禁止している国もある。
見る角度を変えれば、人間はどこでも排他的であり差別的なのだ。
◆
否定してるんじゃない
宗教が心の救いになっている人がいる以上、私の思想に関係なく宗教を否定することはできない。
そしてその宗教にも諸事情というものがあって、吐いた唾は飲めないこともあるのだ。
だってさ、いまだに天動説を唱える宗教もあれば地球平面説を唱える宗教もあるんだよ。 そうでなければ都合が悪いからだ。
かと思えば、クリスチャンに「神は本当に存在するか?」と聞けば、ほとんどの人は苦笑いするだろう。
◆
ダメ系列で考えれば見えてくる。さて、問題のムスリムだが、なんで豚肉がダメなのか。
イスラム教の聖典クルアーンより。
「食することが禁止されているものは、死肉、血、豚肉、アッラー以外(の邪神)の名で供えられたもの」(2章173節)
「汝が食べてはならぬものは、死獣の肉、流れ出る血、豚肉、さらにはアッラー以外の神の名を唱え殺されたもの、絞殺されたもの、打ち殺されたもの、堕死したもの・・・(クルアーン5章3節)
「食べたいものは何でも食べることが出来る。ただし死獣の肉、流れ出る血、豚肉-それは不浄である-、アッラー以外の名が唱えられたものはこの限りではない」(クルアーン6章145節)大事なことなので3回言いましたみたいなw
これを見てなんとなく見えてくるのは「不浄」というキーワード。
死肉は不衛生。 わかる。
流れ出る血は感染しているかも。わかる。
豚肉は当時不衛生なものであった可能性がダメなモノつながりで見えてくる。
砂漠の民(と思われる)が発祥のイスラムが草木や水の少ない地で豚を飼うとどうなるか。
豚は雑食であるどころか、食べ物が不足すると自分の糞まで食べるという食欲。 見るからに汚い。
必要量の餌を与えるには定住型の農耕が発展しなければならず
繁殖力の強い豚は乾いた土地において貴重な水の奪い合いにもなりかねない。
ちなみにアルコールも禁忌なのだが、高温乾燥の気候でアルコールを摂取すると急激な脱水症状になり危険だから。
◆
食習慣も変化してるんじゃないの?恐らくですが、死肉 生血が禁止ってことは生食の習慣があったんじゃないかな。
腐敗した肉でも十分な加熱をすれば、まあ食えないことはない。
生血がダメってことは、血抜きしなさいよってことでしょ。
豚肉は今に至っても生食には向いていない。 寄生虫の可能性があるからね。
よって考えられるのは豚肉を生で食ったやつが食中毒を起こして
吐いた吐しゃ物に回虫がウニュウニョしてるのを見て「豚肉怖い」になったというシナリオ。
これが先人の知恵として宗教というムックで紹介され、真面目な民が守り継いできたと。
衛生に対する取り組みや技術の進歩で、安全になった豚肉。
場合によっては貧困や食糧危機の解決策になるかもしれない。
だけども残念なのは宗教と利権がごちゃごちゃになって、絶対的指導者というものが存在しないことで
時と共に変化すべき宗教という生き方マニュアルは「原始時代に毛が生えた程度」で成長を止めてしまっている。
古き良きといえば聞こえもいいが、天動説の時代でもないし地球が丸いことだって幼稚園児でも知ってる時代だ。
クジラ漁をして世界を航海していた人種が「知的生物を殺すな」なんて言い出すくらい時代は変わったのだ。
◆
まとめ郷に入れば郷に従えじゃないけどさ、まず尊重すべきはその国の生活習慣や宗教観であるべき。
それを理解した上で居場所を求める訴えを起こすのは幸いにも日本では禁止されていない。
例のやつらみたいにとんちんかんな怒りに任せてデモ行進とかだけはしないでいただきたい。下品だからね。
そして、冷静になって自らを振り返ってほしい。
柔軟な対応ができないのは、日本よりむしろ一部のイスラム圏諸国だということ。
気がかりなのは、異質に過剰反応する子供たちによるいじめ。
太っているだけ、メガネをしているだけ、訛りがあるだけ、背が低いだけ
免疫のない子供は本能的に警戒していじめという拒絶反応をしてしまう。
豚肉食うなとか言う前に、子の置かれる環境に対して気遣いしてほしいものだ。
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- 2017/02/08(水) 20:34:53|
- 何様語録
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| コメント:2
柔軟な対応を求めるのは別に構わないけれど、
一方的に、自分は改善する努力をしない要求は、
あまり好感がもてませんよね。
宗教を厳密に守るのは大切なことかもしれないけど、
あまりにやりすぎると、給食の例では、給食の意味がなくなります。
レストランじゃないんだから・・・。
ちょっと話がずれるかもしれませんが、
知り合いの子どもが片方の高音だけ聞き取れないのです。
障害認定になるレベルではないけれど、補聴器なしでは今後の学習などに遅れが出てくるかもと言われています。しかし、ダンナさんの親が、「補聴器なんて反対!障がい者に見える!!」という意見。
これって、どういう感覚なのか?
そんな偏見をもつ大人は、まだまだいるんですね。
子どもは、そういうのに影響されてしまいます。
まとまりない文章になってしまいました。
いろいろ考えさせてもらえる記事でした。ありがとうございます!
- 2017/02/10(金) 09:10:30 |
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- 馬場亜紀 #-
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コメントありがとうございます。 宗教のいけないところは物事の理由まで説明していないところです。
「神が仰った」で完結してしまうので、自己発展できません。その分科学的モノの見方の方に長があると言わざるを得ない感じですかね。
「障がい者に見える」ですか・・・ これは当事者じゃないと安易に意見できない部分でもあることは承知で言わせていただければ、何者に見えようが後に苦労するであろう我が孫を思えば補聴器を受け入れるのは当たり前に思えますね。ですが、子供本人がどのように感じているかが第一であり、もし本人に抵抗感があるのならばケアも必要になります。さらに子供は残酷ですからね。補聴器ひとつでいじめのきっかけにもなり得ますので慎重になる必要もあります。
これ言っちゃうと話は終わりなのですが、祖父母は子育てにおいて法的にも部外者ですからね、親の方針とお子さんとの絆を信じるしかないのでしょうね。
- 2017/02/10(金) 13:10:32 |
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- いえねこ #-
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